尾池 和夫
京都大学には多くの研究所と研究センターが、宇治キャンパスをはじめ各地にあります。その研究所と研究センターの方々が、大学本部のある吉田地区で集まる场所が今までありませんでした。たいへん不便な思いをしておられましたが、このたび宿舎を改修して、「京都大学吉田泉殿」を开设することになりました。
教職員と学生の交流、研究会やセミナー、国际交流、産官学連携の相談、その他あらゆる教育、研究、社会貢献の活動にお使いいただければ幸いです。
この地域には、京都大学の清风荘、叁才学林、女性研究者支援センターなど、日本建筑が并んでいるということを意识して、この吉田泉殿も、木造住宅での耐震性と腐朽菌やシロアリに対する劣化に関する诊断を行い、防灾研究所や生存圏研究所の研究成果を活用して、耐震补强と长期维持のための工夫がなされております。
百万遍には皆様よくご存じの「かぎや政秋」というお菓子屋さんがあります。その场所に「吉田泉殿之跡」という石碑が建っています。
かぎや政秋は、京都大学より200年ほど古く、1696(元禄9)年の创业で、1930(昭和5)年に今の场所に移転され、そのとき新しく「学び饼」を考案したそうです。また、「黄檗」という、まさに研究所群のある宇治キャンパスにピッタリの铭菓も知られています。
その「かぎや政秋」のウェブサイト(外部リンク)に、京都帝国大学文学部国史学科を卒業した奈良本 辰也さんの書かれた「吉田泉殿の記」があります。これを引用します。
「古く平安朝の时代は、この辺り一面の原野であった。田中神社や吉田神社はすでに现在の场所に祀られていたが、此処百万遍のあたりには唯、比叡山への道が一本、寂しく続いていただけである。
西园寺公経が、此地に眼をつけて泉殿を営んだのが鎌仓时代の初めであった。
承久の乱后、公経は大政大臣に任ぜられ、位も従一位に进められた。藤原氏一门に於て最高の権威が保証されるのである。その地位と财力が、彼に几つかの别荘を営ませた。
有名な金阁寺も、始めは公経が北山山荘を営んだところだ。他に山崎の円明寺、吹田の水郷などもあったが、この泉殿もまさにその一つである。
泉殿とは、もと寝殿造りに付随する建筑であって、苑池にのぞんで建てられたものだ。昔の本に「夏は凉しき泉殿、鸭やおしどり织かけて」というような文句をみるが、それは纳凉の场所でもあり観月の席でもあった。
その顷は、吉田神社の东北に源を発する叡山の涌水が此の辺りに清冽な小川となって流れていた。その小川の流れを引き込んで苑池が営まれていたのである。あくまでも美しく、そして清らかに澄んだ水の面に浮かぶ泉殿、ひとびとは、西园寺家のこの别荘を吉田泉亭と呼び倣はすようになっていた。」
1397(応永4)年、足利义満が西园寺公経の山荘の跡に「北山殿」と呼ぶ别邸を造って隠栖しました。后に义満の法号にちなんで「鹿苑寺」と号するようになったもので、それが今の金阁寺です。西园寺公経(きんつね)は公家であり歌人でした。
右京区嵯峨北堀町に鹿王院という静かな寺があります。足利义満が延命祈愿をもって建てた禅寺で、枯山水の広々とした庭があります。この寺は金阁寺のイメージの元になったとも言われますが、今、女性専用の宿坊としても知られています。
そしてちょうど500年后、1897年に西园寺公望(きんもち)が京都大学を京都に诱致しました。西园寺公望は文部大臣时代に、教养ある市民の育成を重视し、「科学や英语や女子教育を重视せよ」といった人でもあります。
その西园寺公望の屋敷であった清风荘と南北に并ぶ场所に、また京都大学の女性研究者支援センターとも并んで、この建物に由绪ある吉田泉殿の名をいただくことになりました。21世纪の教育と研究を推进するための拠点が、また一つ新しく生まれたことはまことに庆贺すべきことであります。
皆様の活発なご利用を期待して、お祝いの言叶といたします。