前号の 「京大の実は!痴辞濒.37~「文化财総合研究センター」の実は!(前编)」 では、大学构内の発掘现场と、遗物の保管先の一つであるセンター资料保管室の潜入レポートをご绍介しました。
つづく【后编】では、もう一つの保管先でもある登録有形文化财「尊攘堂」の内部と歴史を彻底レポートします!
普段は見ることのできない尊攘堂の内部と、現在そこに保管されている遺物の数々、さらに! かつて尊攘堂に寄贈?保管され、今は附属図書館の地下に眠る貴重な維新の遺品コレクション(※一般非公開)も紹介しますよ~!
「尊攘堂」ってどんなところ?
京都大学の构内に、吉田松阴の门弟であった品川弥二郎が松阴の遗志をくみ、维新における尊攘の功ある人々を顕彰するため创设された建物「尊攘堂」があります。尊攘堂の名は、もともと品川弥二郎が1887(明治20)年に高仓通锦小路に创设した建物に由来し、この建物は品川弥二郎の死后、京都帝国大学に寄赠された松荫の遗墨类をおさめるため1903(明治36)年に建てられました。そして1998(平成10)年、国の登録有形文化财として指定されています。
(左)1909年顷の尊攘堂(写真向かって左の建物)とその周辺风景。右侧にあるのは初代の附属図书馆。现在の教育学部あたりですね。(「京都大学百年史写真集」より)、(右)尊攘堂外観(「尊攘堂遗墨集、1928.口絵」より)
(左)品川弥二郎、(右上)登録有形文化财に指定されています。(右下)现在の尊攘堂石碑
品川弥二郎が寄赠した松阴の遗墨类は、なんと千数百点!
コレクションの中核となっているのは、もちろん松阴の书简?上书?稿本等の遗墨や类縁资料がほとんどですが、松下村塾(松阴が山口県萩に设立した私塾)に集まった高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山県有朋といった名だたる长州出身の志士たちの墨跡?遗品も豊富なのです。
现在、それらの遗墨类は附属図书馆に移され、现在の尊攘堂は文化财総合研究センター资料室として活用し、大学构内の発掘调査により出た遗物を展示しています。
今回は、それらのコレクションの一部も绍介しちゃいますよ!
长い眠りから目覚めた、尊攘堂の石碑の「実は!」とは????
ところで。今では、建物正面に向かって右側にある「尊攘堂」の石碑(写真右下)、1940年10月に皇紀2600年を記念して建てられ、1945年8月21日に撤去されました。 石碑の正面に「尊攘堂」、側面に「皇紀二千六百年記念」と刻まれていることから、「尊攘」「皇紀」の記述がGHQに問題視されることを当時の人々は危惧したのでは?と推測されています。その後、長い間所在不明となっていましたが、2013年に大学構内で発見されました。
同研究センターでは、この石碑は尊攘堂の沿革を知る上で重要な文化财であるとして、2014年12月に、元あった场所に近い位置に復旧したのです。
「尊攘堂」内部に潜入!
现在では文化财総合研究センター资料室として、大学构内における埋蔵文化财调査成果の保存?展示目的に使用されている尊攘堂。
常时公开していないので、気軽に中に入ることは出来ないのですが???今回は、広报叠がその内部を彻底的にご绍介します!
今回、尊攘堂を案内してくださったのは???
3人目の 「京大発掘マスター」 こと、千叶豊先生です!
日本考古学(縄文时代)を専门とする千叶先生。
尊攘堂馆内の案内人として、一般の方向けにもわかりやすいレクチャーを行っています。
尊攘堂内部の贵重な遗物、见せてください!
建物の中に入ると、そこにはまるでタイムスリップしたかのようなレトロな空间が広がります。
まず目に飞び込むのは、华やかな唐草装饰が印象的な大ぶりの照明。中央広间の天井をめぐる漆喰装饰がステキな雰囲気を醸し出しています。
そしてズラリと并ぶさまざまな展示物の数々。これらはすべて、京大构内の発掘现场から出てきた遗物たちです。
尊攘堂内部
前号の 「京大の実は!痴辞濒.37~「文化财総合研究センター」の実は!(前编)」 で、京大构内の発掘现场から出てきた遗物のゆくえについてご绍介しました。
京大构内の発掘现场から出てきた遗物は、まず発掘直后の仕分けで考古遗物かどうか判断し、分析?データ化して记録した后、重要と思われるものはセンター内地下にある资料保管室か、ここ尊攘堂で保管することになっています。尊攘堂での保管は、公开を念头において、出土遗物の中から选りすぐったものを时代顺、テーマ别に収纳展示しています。
縄文时代や古坟时代など、古代の遗物がたくさん!
京都大学北部构内一帯は北白川追分町遗跡にあたり、縄文时代の遗跡を多数発掘しているため、たくさんの遗物が発见されています。また、昭和56~57年にかけての吉田食堂新営に伴う発掘调査では、古坟时代中期の方形坟が5基も発见されました。
縄文时代の土器や石器など。特に縄文时代の土器は、北部构内の北白川追分町遗跡を中心に多数の出土があるそうです。
古坟时代の须恵器や土师器など。现在まで吉田南构内においてみつかった古坟时代の方形坟は9基にもおよぶそう!
そのほかにも、弥生時代の水田跡 、奈良時代の竪穴住居、平安時代の梵鐘鋳造遺構 、鎌倉時代の邸宅跡???など、さまざまな時代の足跡の証となる遺跡が構内各所で多数発掘され、同時にたくさんの貴重な遺物が発見されているんです!
近世?近代の遗物には、「土州屋敷」の存在を明らかにするものも。
慶応4(1868)年刊の「改正京町御絵図細見大成」には、北部構内にあたる場所に「土州屋敷」(土佐藩白川邸)が描かれています。 1992年度の発掘調査では、この幕末土佐藩邸の堀や藩邸内の井戸がみつかり、堀からは大量の桟瓦が出土しました。これらは刻印から土佐で生産されたことがわかっています。
江戸时代末期の刻印をもつさまざまな桟瓦
桟瓦の刻印(拓本)
土佐藩白川邸の堀跡からは、向かって左侧に袖をもつ通常の桟瓦(右桟瓦)に対して、右侧に袖をもつ左桟瓦が4割を超える比率でみつかっています。
向かって右侧に袖をもつ左桟瓦。その刻印から、高知からきたものだとわかります。
高知にある古い武家屋敷の屋根。同じ屋根面の中央に1列平瓦を用いて、向かって左に左桟瓦、右に右桟瓦を使用する高知独特の葺き方。屋根面の中央から左右へ向かって同时に瓦を葺けることから、作业効率を高めるという理由が考えられるそう。
病院构内は、文人墨客が集うサロン的エリア「圣护院村」だった!
また、现在の病院构内のあたりは、江戸时代には「圣护院村」の北辺にあたり、江戸后期から幕末の圣护院村は文人墨客が集うサロン的なエリアだったそう。大田垣莲月、富冈鉄斎をはじめ、名だたる画家や歌人、书家などが、现在の熊野神社周辺に点々と居を构えていたそうです。そのため、それら文人にまつわる贵重な遗物も多数発掘されています。
【莲月焼】
中でも、幕末の歌人、大田垣莲月(1791~1875)が製作した莲月焼はとても人気の焼き物だったそう。
大田垣莲月(1791~1875)は、二度にわたる夫との死别、4人の子を幼くして亡くすなど、恵まれぬ半生を过ごしながら33歳で出家し莲月と号しました。絶世の美人と知られた莲月はひっきりなしに言い寄ってくる男に心身疲れ、「いっそのこと老婆になりたい」と自ら歯を抜き血まみれになって容貌を変えて贞操を守ったことから、京都では理想の女性像ともされているとか???。すごい伝説ですね???。
蓮月焼は、その蓮月が自詠の和歌を釘彫りした茶器で、 当時の文人墨客の煎茶趣味と合致して名声を博したとされています。
和歌が描かれた莲月焼。当时は、和歌を焼き物の絵柄として使う発想はとても斩新だったそうです。
みつかったものは焼き损じたものばかりで、莲月が圣护院村の北辺(现在の病院构内东南部)に居住した60歳代后半から70歳代前半の作品と考えられています。
【乾山焼】
初代乾山とされる尾形乾山は江戸中期の陶工?画家で、尾形光琳の弟。野々村仁清に学び、京都で鳴滝窯を開き、晩年は江戸入谷に窯を築いたとされています。享保16(1731)年ごろ、尾形乾山が江戸へ下向したのち、京では養子の尾形猪八が2代乾山を名乗り、 聖護院門前で乾山焼を継いだことが初代乾山著「陶磁製方」に記載されていました。 2001(平成13)年の発掘調査で、乾山銘をもつ陶片や窯片を多数発掘。文献にみえる「聖護院窯」が実存したことを示す考古資料といえます。
病院构内で多数発见された乾山焼。いずれも一部であることが惜しい!
左から二つ目の茶碗の里には、はっきりと「乾山」の铭が。
この乾山焼発掘の影には、「実は!」なエピソードも???
乾山焼発掘の影にある 「実は!」 なエピソード
その当时、乾山研究をしていた研究者がいました。国际基督教大学(滨颁鲍)のリチャード?ウィルソン先生(乾山焼研究の第一人者)。
千葉先生たちの発掘チームが病院構内の発掘調査をしていた頃、初代乾山が開いた鳴滝の乾山窯跡の調査に参加されていたウィルソン先生が発掘現場に見学に来られて、「このあたりに二代乾山が工房を構えたことが文献に書かれている!」と教えてもらったそうです。最初は半信半疑で、発掘中にはその存在を確認することはできませんでしたが、整理調査に入って遺物の洗浄をしているときに???なんと「乾山」という銘のある陶片を発見! ウィルソン先生に電話すると翌日すぐに調査事務所に駆けつけられ、先生が二代乾山の様式と考えていた陶片や窯道具を確認。文献の記載を、考古学の発掘資料が裏付ける重要な発見となった貴重なエピソード。研究者同士の連携もあってこその成果ですね!
叁高?京大関连遗物の中には「総长印」の汤饮みも!
発掘調査では、第三高等学校や帝国大学時代の遺物もたくさん出土しています。 「第三高等学校」と呉須で筆書きした茶碗は吉田南構内、それ以外は本部構内から出土したもの。 図案化された大学マークをもつ土瓶?茶碗は、底に「本」の銘をもつことから本部で、 「法」のマークをもつ土瓶は法学部で使用されたことを示しています。 これらは、地元?清水焼の窯元による注文生産品だそう。部局ごとのオーダーメイドなんて、今では考えられないですよね!
本部構内?吉田南構内で発見された大学マーク入りの急須と湯飲み。「総長」マーク入りの湯飲みも! 一番右は、ハンマーをクロスさせた図案や出土した地点から、工学部の特注品とみられます。
その他にも、尊攘堂には、さまざまな贵重な遗物がたくさん展示されています。
尊攘堂は通常一般非公開ですが、見学希望者は事前に文化财総合研究センター事務室にお問い合わせしていただければ見学することも可能ですよ!(Tel: (075)753-7691 ※受け付けは平日9時00分~17時00分、見学は原則平日のみ可)
京大构内から目覚めた歴史の数々に触れに来てみてはいかがでしょうか?
かつての尊攘堂にあった、维新时代のコレクションをちょっとだけご绍介!
もともとは、吉田松阴の门弟であった品川弥二郎が寄赠した松阴にまつわる遗墨类が保管されていた「尊攘堂」。
それら贵重なコレクションは、今では附属図书馆の地下で大切に保管されています。残念ながら、どれも一般非公开。
「その千数百点にもおよぶ松阴コレクション???ほんの少しでもいいから、见てみたい???!」
???という贪欲な広报叠のお愿いにより、今回特别にその一部を见せていただきました!
歴史好きにはたまらない!? 维新にまつわる贵重な品がズラリ!
まずはこの二体の木像からご绍介。左から、品川弥二郎さん、吉田松阴さんです。
(左から)品川弥二郎木像、吉田松阴木像。いずれも疋田雪洲作
尊攘堂所蔵品の寄赠にあたって、尊攘堂保存委员会は、10月27日の松阴忌と、2月26日の品川忌には、尊攘堂を借用して慰霊祭を営むこと、さらに所蔵品を展示して一般の人でも见ることが出来るよう京都帝国大学に申请しました。以后20数年、协定どおり年2回の祭典は催されていましたが、大正10(1920)年になって、年1回秋の小祭と3年に1回の大祭に変更され、昭和19(1944)年まで展示会は开催され、例祭は翌20年が最后となりました。
当时の尊攘堂の例祭の様子。例祭では、吉田松阴と品川弥二郎の木像が安置されました。(「尊攘堂誌、1928.口絵」より)
さてさて、どんどんご绍介しますよ~!
「坂本龙马书状」
「坂本龙马书状」は、慶応元年(1865)12月29日、下関に滞留中に龍馬が長府藩士印藤聿に送ったものです。まず、乙丑丸の契約改訂のために山田宇右衞門、中島四郎等が来たことを述べ、事件解決の自信、木戸孝允が黒田清隆と諸隊の俊英とともに上京したことを記し、孝允から龍馬に上京してくれと言ってきたことを報じています。そして、龍馬自身慶応2年(1866)正月早々に上京するので、同行の士を求めると述べています。この手紙の後、正月元旦に印藤聿の紹介で長府藩士三吉愼藏と相会し、正月10日愼藏、土佐藩士池内藏太、龍馬社中の寺内新右衞門(新宮馬次郎の変名)を伴って、海路上京の途に就いたのです。
写真中央下は、龙马の直笔サインだそう!
「萨长芸叁藩盟约书草稿」
かの大久保利通の自笔!
「萨长芸叁藩盟约书草稿」は、薩(鹿児島)、長(山口)、芸(広島)三藩が武力倒幕に向けて盟約を結んだ際の盟約草稿です。この盟約書は維新の三傑といわれる大久保利通(文政13年(1830)~明治11年(1878)鹿児島藩士)の自撰自筆。
庆応3年(1867)9月8日に京都で大久保利通、西郷隆盛、品川弥二郎、広沢真臣(长)と辻将曹(芸)が会して决盟され、この盟约が成立して、ついに讨幕の内勅が下され王政復古の端绪が开かれました。
维新史上に贵重な地位を占め、その価値は极めて大きいのです!
「 松下村塾一灯銭申合帐」
「一灯銭申合帐」は、吉田松阴の没后、门下生が写本を作り、その笔稿料を蓄积し他日のために备えようしたもので、趣意书と门下生それぞれの実绩を记したものです。大部分が久坂玄瑞の笔。表纸に安政と书いたのを订正し、文久辛酉12月朔日と记しているように、文久元年(1863)12月のもの。
门下生の名の中には、品川弥二郎の名前も。(写真中央下)
「奇兵队日记」
「奇兵队日记」は、高杉晋作らが創設した山口藩奇兵隊の、元治元年(1864)英仏米蘭四国軍艦下関砲撃や慶応2年(1866)小倉戦役等における活動を記録した原本です。
全29册にもわたる奇兵队日记。(第25、第26册欠)
奇兵队が结成された文久3年(1863)6月の记録です。
一般非公开の贵重资料は、ネットでも见ることができます!
これら贵重な资料は、残念ながら一般非公开???。
ですが!附属図書館の「京都大学電子図書館 贵重资料画像」では、これら貴重資料をネットで閲覧することが出来るんです!今回ご紹介した「維新特別資料文庫」のほか、国宝「今昔物語集」や重要文化財40点をはじめ、約4,000点もの貴重な資料がインターネット上で公開されていますよ。ぜひネットで、維新の歴史に触れてみてください!
- 京都大学電子図書館 贵重资料画像
みなさん、「 文化财総合研究センター の実は!(后编)」、いかがでしたか?
まさか京大构内に遗跡発掘现场がこんなにあったとは???、まさかこんな身近なところに维新の贵重な资料が眠っていたとは???。
どうやら京大には、広报叠でもまだまだ発掘しきれていない、たくさんの宝物が隠れているようです。
発掘マスターと同じように、広报叠もワクワクしながら、この京大の魅力発掘现场をざくざく掘り起こしていきますよ!次号もお楽しみに!
関连リンク
京都大学文化财総合研究センター
京都大学附属図书馆ホームページ
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