平成15年4月7日
本日京都大学大学院に入学されました博士前期课程2,172名、博士后期课程982名の皆さん、おめでとうございます。皆さんが京都大学の活动を支える构成员として我々の仲间に入っていただいたことは大変うれしく、ご列席の副学长、各研究科长とともに心から歓迎致します。
大学院の前期课程においてはある程度の数の授业を受けねばなりませんが、后期课程ではその数が大きく减り、研究が中心となります。皆さんは大学院へ入ってきた以上、各自が自分の研究テーマを明确に持っていることが必要です。このテーマをどのような観点からどのように攻略し、修士论文、博士论文にまとめるかということについても、いろいろと考えていることと思います。今日では良い研究成果を早くあげれば、所定の期间在学しなくても学位を得ることができる时代となってきていますので、ぜひともしっかりと勉强し、また研究を行ってください。
学问の仕方については、古く本居宣长の「宇比山踏」(1798年、宣长69才の着作)に含蓄のあることが书かれています。『いやしくも学问に志す者は、始めからこれをやるのだという课题があって、また学问の方法も本人が见つけるべきである。それがかなわぬ人はどこから入ってゆくのがよいか、あれこれと问い求めることになるが、よい课题、よい方法を见つけるかどうかによって、随分差が出てくるものである。しかし课题は他が押しつけるべきものではなく、本人が选ぶべきものである。学问の成果をあげるには、自分の好きなこと、自分の性に合ったことをするのがよいのであって、やり方についてもこうすればよいと教えるのは容易であるが、その通りにするのが本当に良いものかどうか疑问である。本人に任せるしかないのである。要は、忍耐强く长期间励むことが必要で、心がくじけるようではいけない。』というわけです。学问を志す若い弟子をつき放したような言叶ですが、これは、宣长の长年の学问への精进の経験から得た结论なのでしょう。京都大学の大学院で学问をしようとする皆さんには、自分で道を见つけてゆく覚悟がなければなりません。
本居宣长は、今日の我々にとっても考えさせられるもう一つの重要なことを述べております。それは朱子学や儒学が支配的であった江戸时代において、日本古来の精神のすばらしさを発见し、その大切さを自覚し、日本人は日本人の精神性の上に学问を筑くべきだと主张したのであります。真に独创的な思想や学问は、文科系?理科系にかかわらず、自分のおかれた歴史的?社会的环境の中で彻底的に考えるという研究者の主体的意欲によってこそもたらされるということを、宣长の学问が我々に示してくれているといってよいでしょう。他人の学问?研究の上にちょっと接木をするようでは大きな学问は育ちません。こういったことについても皆さんによく考えていただきたいと思います。
さて今日、社会からの大学批判は相当に厳しいものがあります。大学院学生については、视野が狭く、自分の研究したことの延长线上でしか物事を考えず、新しい课题に取り组む积极性に欠けるといったことが言われています。そういったこともあってか日本の社会は博士后期课程修了者をあまり歓迎せず、修士课程修了者を採用するという倾向がいつまでたっても改善されません。これからの大学院修了者は、修士课程修了の人はもちろんのこと、博士课程修了の人は特に学问研究をしっかりとしたわけですから、専门分野の深い知识の他に、他の分野についても広い视野と适切な判断力を持っているべきですし、また种々の新しい课题に対してそれまでの経験を生かして积极的に取り组むことができねばならないでしょう。ぜひともそういった人材となって大学院を修了してゆけるよう努力をしていただくことを希望します。
皆さんもご存知のことと思いますが、来年度から専门职大学院制度が発足することになります。法科大学院、いわゆるロースクールやビジネススクールなどと呼ばれているものがその典型ですが、その他に公众卫生分野など、国家资格等の职业资格と関连した専攻分野や、社会的に高度な専门职业能力を持つ人材育成が必要とされている専门分野など、种々の専门分野で二年ないし叁年の标準修业年限のコースで実务を彻底的に教育するものであります。この専门职大学院构想が文部科学省で検讨されたとき、现在の大学院修士课程の修了では社会に出たときただちに実务に役立たないから新たな教育课程を作るという提案に対し、少なくとも理工系の修士课程を修了した人は十分に実际に役立っているという発言もあり、通常の修士课程と専门职大学院との违いはどこにあるかを明确にすることに议论が集中しました。
専门职大学院の场合、まずその分野の実务に十分な知识と経験のある人を教官に相当数持つこと、専门职大学院の学生は授业科目の履修の他に、実务の実习、事例研究、现地调査などをすることにし、従来の大学院のように研究をするのではないといったことに修士课程との违いを出すことになりましたが、少なくとも工学系の场合は両者の区别はあまり判然としません。
ただ今后このような専门职大学院ができると、そこからは毎年かなりの数の修了生が出ることになりますから、大学院へ入学された皆さんでずっと研究生活を続けるのでなく、修士を终わって社会に出てゆくという人の场合は、よほどよく自覚をもって研究的能力と実务的能力の両方についての力をつける必要がでてくるでしょう。でなければ、専门职大学院修了者の方が社会から歓迎されるということになりかねません。
これからの社会はますます全てのことについての公平性、透明性を重视し、竞争的な环境を整备するとともに、败者に対する救済、调和のとれた社会の発展という方向を目ざすことになるでしょうから、専门的知识とともに他の种々の分野の状况についての理解力とバランスのとれた考え方、职业伦理、社会道徳といったことを必要とします。専门职大学院では、専门分野の実务の他に、専门家としての职业伦理を教え、职业人としての使命感を持たせる教育も行うべきであると思いますが、こういったことは専门职大学院だけでなく、従来の大学院で学ぶ人达にも当然必要なことであります。したがって皆さんは自分の研究、関连分野の広い知识などの他に、职业伦理についても勉强し、社会に贡献するという使命感をもたねばなりません。
京都大学大学院で学ぶ皆さんは良い研究成果をあげるとともに、ここに述べましたように、これまでの大学院での教育研究とは违った新しい大学院が自分の周囲に作られようとしていることをよく知り、自分の幅を広げ、人格を确立し、将来社会の各方面におけるリーダーとして活跃できる基础を作るべく努力していただきたく存じます。
皆さんの大学院生活が実りあるものであることを期待し、お祝いの言叶と致します。