平成14年9月25日
本日京都大学博士の学位を得られました课程博士66名、论文博士48名、合计114名の皆さん、まことにおめでとうございます。ご列席の副学长、各研究科长とともに心からお喜び致します。
さて、今日は西洋と东洋あるいは日本との违いについて考えてみたいと存じます。物事を二分法的に割り切って论じるのは良くないことですが、私にはどちらかといえば西洋は动物的であり、东洋、特に日本は植物的であると感じられます。ヨーロッパ人は自由に动きまわる动物であり、古くから国を越えて移动し、アフリカはもとより南北アメリカ、ついにはアジアにも进出してきました。彼等は能动的で动物的な闘争をしますし、食事も肉食中心であります。これに対して东洋人、特に日本人は自由に动きまわることはそれほどせず、あまり争わず、定住的で积极的に外に出てゆく意欲を持たず、食べる物は米などの草食中心で来たわけです。
学问の世界で考えても彼我にいろんな违いがあります。ヨーロッパ人は物事を要素に分解して、分析的に考え理解します。この西洋人の分析的思考法から自然科学のぼう大な体系が作られました。キリスト教の教义についても、原理原则からの帰结として教义の解釈が行われましたし、神の存在証明が延々と议论されたのは有名なことであります。
これに対して东洋の方はどうだったかというと、全く逆の方向であります。古代中国における科学技术が当时の西洋とは全く比较にならない高さを持っていたことは、ニーダムの名着「中国の科学と文明」で明らかにされたことでした。しかし、それが今日まで発展的に継承されなかった理由は分析的でなかったからであると言うことができるでしょう。
物事を分析的にとらえ、要素に分解し、これを组み合わせると元の物が出来上るという立场は几つもの利点をもっています。一つは分解されたそれぞれの要素は単纯なもので人から人へ教え伝えることが容易であり、それを组み合わせればよいわけですから、天才に限らず多くの普通の人に技术が継承できるわけであります。もう一つは要素の违った组み合わせによっていろいろと新しい物を作り出せるということです。こうして技术は进歩発展し现代西洋文明が筑かれてきました。
これに対して中国や日本の技术は谁もが学びとれるように分析的に取り扱われず、见よう见まね的に全体が弟子に伝えられるという形だったがために、特别の才能のある人だけがそれを受け継ぐことができたということで、古代中国の技术も大きな発展には至らず、その成果が社会に広く流布するところにならず、结局はすたれてしまったわけです。东洋人、特に日本人はどちらかというと直感的に全体を有りのままにとらえようとする倾向があります。受动的な理解ともいえるでしょうが、分析すれば、それはもう元のものの持つ本质が失われてしまうと考えるからなのです。真に优れた芸术品は技术の単纯な组み合わせで作られるものではなく、人间精神の微妙な働きによる美的统一感によってしか作られないものでありますから、中国や日本の名人と称される人达の作ったものは西洋を凌驾する高いレベルのものだったわけです。ここにもヨーロッパの外向きの姿势、ダイナミックな动物的性格が见られるのに対し、中国や日本は密かに物事を伝えてゆく、内向きのいわば植物的な性格をみることができます。
このようなところから、ヨーロッパの人达は动的?闘争的であり、しばしば欲望にまかせて凶暴となる危険性があるということで、これを押えるために强力な唯一神が创造され、その力によって人达の规律が保たれるようになったのではないかとすら邪推させられます。そこでは神は人间を支配する超越的絶対的な存在であり、人々は神との契约の下に生きるというわけであります。ただ异なった唯一絶対神の下にある人同士には何らの関係もありませんから、闘争が起りうるわけであります。しかも近年どこにおいても神の力は弱くなってきており、人间のあくなき欲望が丸出しになってきて、多くの残虐なことが起り、悲剧が起っているのは残念なことであります。
これに対して东洋、特に日本の场合は违います。木々はお互いに静かに隣接して生长し、林を形成し、动物のように激烈な闘争はせず、调和的に共存します。したがって人々を服従させる超越的絶対神は必要なく、多くの神々が人间とほとんど同列的なレベルで共存してきたと见ることができるでしょう。仏教に神というものは存在せず、我々人间も努力して悟りの境地に至れば仏になることができる、仏は追求すべき真の自己であるというわけであります。
日本人の场合は微细な変化に対する感覚が特に鋭く、対象を分析的に理屈で説明しても十分に説明したことにならないことを直感的に知っていて、以心伝心、不立文字、人间の全能力で感知することを尊んだのではないかと思われます。自然界に存在する全ての対象の持つ説明しきれない精妙さや生命力に対して神秘な何物かを感じ取り、我々の祖先は自然界の全ての物に霊が宿っていると考え、そこに神の存在を自覚したとしても不思议ではありません。そしてそこには、小さな子供が自然の生命を惊きの目で眺めるといった无垢で纯粋な目と心があったのではないでしょうか。
今日の世界は个人の欲望を限りなく追求することを认める资本主义社会、利己主义の社会になっており、これを克服することが21世纪最大の课题であると思われます。これはそもそも既に述べましたように动物的性格をもつ西洋の思想から出て来たものであり、これを西欧的な物の考え方で克服することは难しいと思われます。
21世纪のもう一つの大きな课题は地球环境问题であることは言うまでもありません。环境汚染をしない技术、また汚染された环境を回復するための技术の开発を进める必要があります。しかし、それだけで地球环境问题を解决することはできません。社会の人々全てがこの问题について次のような根本的な认识を持つことが必要でありましょう。すなわち、人间は自然を自由に利用できる自然より一段上の存在であるという西洋的概念では根本的解决を期待することはできません。人间は常に自己抑制的でなければなりません。これを実现するためには、人间も他の动物?植物も、また山や川、田畑や石など地球上の全てのものが対等で、我々人间と同じく大切な存在であるとする东洋的考え方を持つことが必要であります。特に全てのものは霊が宿っている尊敬すべき対象であると考える古来の日本的考え方の大切さを再认识することが必要であると考えます。これは人间の自己否定、自己を无にするということを通じて初めて体得できる考え方でしょう。これは西田几多郎先生も言っておられることであります。
このように全てのものの调和ある共存という日本的な考え方がなくて21世纪はありえないというところから、今日こそ我々はこの日本的考え方が世界性を持っていることを认识しなければなりません。京都大学が昨年末に定めた京都大学の基本理念は、そういった考え方を暗黙のうちに含み、地球社会の调和ある共存という概念を基础において、研究?教育?社会との関係など、大学运営のあるべき具体的理念を表明したものであります。
本日京都大学博士の称号を得られた皆さんも、この京都大学の基本理念をよく理解し、分析的にのみ物事を考えず、総合的立场あるいは全体としてのあるべき姿を把握する直感を磨き、その立场から问题をその问题の存在する场において正しくとらえて解决してゆくという努力をしていただきたく存じます。単なる学问のための学问でなく、我々人间にとっての学问、地球社会にとっての学问とは何かをよく考え、そのような学问をするということを目ざし、これからも研钻されますよう期待し、お祝いの言叶と致します。