平成14年3月26日
今日京都大学を卒业される2,835名の皆さん、まことにおめでとうございます。元総长沢田先生、ならびに名誉教授の方々のご列席のもとに、各学部长とともに皆さんの门出をお祝いできることは、私の最大の喜びであります。卒业式にご参列下さいました皆さんのご両亲、ご家族、関係者の方々にも心からお庆びを申し上げます。
皆さんは小学校以来今日まで、16年间以上にわたって教育を受けて来たわけですが、今日の卒业式にのぞんで、京都大学での学生生活をどのようにふり返っているでしょうか。皆さんはどれだけのことを学び、どれだけのことが身についたものとなっているでしょうか。どのような楽しいこと、苦しいこと、悲しいことがあったでしょうか。
そういった事を通じて、自分は人格的にどのように成长し、社会に出てゆこうとしているのかをよく考えてみていただきたいのであります。诸君は法律上も社会的にも、もう立派な大人と认められているわけですが、ほんとうに一人の独立した社会人として、自分でよく判断し正しく行动する自信をもっているでしょうか。
皆さんは今日から社会人としての第一歩をふみ出すのであります。もちろん、まだまだ未熟であるわけですが、京都大学で得た知识、训练した人格の力に支えられた勇気と自信をもって、皆さんを待ちかまえている未知の世界に出てゆかねばなりません。
今日の世界、特に日本社会は大きな激変期に入って来ております。おそらく败戦以后の最大の社会的変革の时期を迎えていると言って间违いありません。失业者が増え、また皆さんのような若い人达でさえ就职できない人が増加しています。デフレ経済で公司はどんどんと倒产してゆくという状况であり、何が起こっても不思议でないといった様相を呈していることは皆さんも十分认识していることであります。国际的に见ても、贫困から脱出できない国や飢饉にあえぐ人达がぼう大に存在し、宗教的対立もからんで、世界各地で民族纷争が起こるといった状况であります。
一方では、目ざましい科学技术の进歩があります。世界中がインターネットを介して即时につながり、またクローン动物が出来たり臓器移植が行われるといった、以前には考えられなかったようなことが実现されつつあります。しかし他方ではこの大きな地球がどんどんと汚染され、环境破壊されつつあるという事実もあるのであります。
このように今日地球上では、目をおおうばかりの悲惨から、现代文明を支える人间知识の辉かしい成果といったことまで、あらゆる事が起こっております。このような状况を我々は一人の人间としてどのようにとらえ、どのように理解すればよいのでしょうか。
我々は、人类の英知は无限に発展し、辉かしい未来があるのだという进歩の概念によってこれまで来たわけですが、これからは决してそうではないということがはっきりして来ました。まさに価値観の転换期を迎えているということであります。どのような価値観に変わって行くのかは、皆さんがそれぞれによく考えねばならないことであります。これからの复雑で激动する社会に入ってゆく皆さんは、よほどしっかりした人生観、物の见方をもっていなければ、目先のことに翻弄され、自分のやるべき事が见えなくなり、自分の人生を见うしなってしまうことになりかねません。
ただ、自分の物の考え方、あるいは人生観といったものも固定されたものではなく、人生経験によって変化し成长してゆくものでありましょう。その成长が健全なものであり、立派な人格を身につけることになる基础は、皆さんが大学で学んだ学问であり、青春时代のいろんな経験から形成した伦理観、道徳観であります。皆さんはこの大学时代に得た様々な事を生涯大切にし、これに磨きをかけていってもらいたいのであります。
京都大学の创立者、第一代総长の木下广次先生は「自重自敬を旨として自立独立を期す」と言っておられます。これは「自由の学风」という概念とともに京都大学の理念となっていますが、自分が自分の责任において事にあたってゆくという意味が込められていると考えられます。皆さんはこの困难な世界に出てゆくにあたって、この「自重自敬」という言叶をよくかみしめ、ことあるごとにこの言叶を思い出していただきたいと存じます。「政治が悪い、社会が悪い、会社の上司が悪い」などと言って、他人に责任を押しつけていても、何も良くはならないのです。どうすれば良くなるか、自分の力で出来ることは何かを考え、时间がかかっても忍耐强くやってゆくことが必要であります。
21世纪の京都大学の努力すべき目标として昨年末に定めた京都大学の基本理念の中で、
「教养が豊かで人间性が高く、责任を重んじ、地球社会の调和ある共存に寄与
する优れた研究者と高度の専门能力をもつ人材を育成する」
と述べています。これからは他人や他の生物?无生物を犠牲にして科学技术を无理矢理に押し进めたり、自分の公司だけが竞争に胜つために手段を选ばないといった过度の竞争、他を犠牲にした独善的な発展といったことは否定されるべきであり、あらゆるものとの调和ある共存を目ざすべきであります。
「共存」という言叶は「共生」という言叶と置き换えてもよいでしょう。この「共生」は生态学において「寄生」に対する対概念として定义されているものであり、そこには対等の立场での存在という意味が込められているのであります。京都大学の基本理念における「共存」には、当然その意味が込められております。多民族?多文化の共存、先进国と途上国との共存など、社会学、政治学の世界はもちろんのこと、さらに広く动物の生存の権利や自然环境そのものの存在の権利、あるいはその存在の価値の尊重といったことまでも含んでいると解すべきであります。
特に我々现代の人间が将来世代の人々のことを考えずに地球资源を消费しつくしてしまうといったことは、现代世代と将来世代との利害衝突と考えることが出来るでしょう。このような场合は、一方は権利主张を出来るが、他方は権利主张する主体が现时点で存在しないという场合であります。さらに人间以外の生物?无生物は権利主张する手段を持たぬ主体であります。権利という概念は意志のあるところのみに存在するという古典的な定义や解釈を越えて、権利主体をもっと広くとらえることが必要であり、また今日の権利概念はそのような方向に行きつつあると考えられます。これは新しい価値観の时代に入って来つつあることを示しており、京都大学の基本理念はそういったところに作られているのであります。
森罗万象との共生、共存という概念は、东洋において古くから存在したものであります。人间、あるいは自己は宇宙?自然の中の一员であり、自分は他の全てのものと同列にあるという考え方であります。自分が大切な存在であれば、自分の隣にいる人达、自分をとりまく事物もまた全て同じく大切なのであり、自己に魂があるとすれば、他の全ての存在にも霊魂が宿っていると観る见方であります。日本古来の思想はその色彩が特に强く、自然と人间との共生、共存ということが何らの不自然さもなく今日にまで引き継がれて来ております。
こういった全てのものの共存の概念の社会において、我々はこれまでのようにほとんど无制限な権利や自由を主张し、またそれを享受することはできません。地球世界の全てのものが共生?共存してゆくためには、全てのものが自分のエゴを押さえ、それぞれが他者の立场に立ち、一定の犠牲をはらい、忍耐することが必要であります。
我々は今日、このような考え方、すなわち人间が地球上の他の生物、また无生物とも适切な形で共存してゆくという覚悟をしなければ、21世纪の社会が直面しているエネルギー问题や地球环境问题を始めとする数多くの深刻な问题の真の意味での解决を得ることは困难でしょう。
したがって、これから益々グローバル化されてゆく国际社会において、我々はこの日本古来の精神に立ち帰って、これを世界の人达に広めてゆく努力をする必要があると考えます。全てが竞争であり、全てが金銭的価値で计られるという今日の社会を変革し、京都大学の基本理念が述べている「调和ある共存」という新しい価値観が広く受入れられる社会に向って、我々は力を尽くしてゆかねばなりません。
今日卒业される皆さんはこういったことをよく考え、皆さんのこれからの幸い多い人生を通じて全てのものの调和ある共存に向って努力して行っていただくことを期待し、私のお祝いの言叶といたします。