平成13年4月11日 学部入学式

学部入学式式辞

平成13年4月11日
総长 长尾 真

 21世纪の最初の年に京都大学へ入学された2,883名の皆さん、おめでとうございます。ご参列の元総长、名誉教授の先生方をはじめ、ご列席の各学部长、教职员とともに、新入生の皆さんとご家族の方々に、心からお喜びを申し上げます。

 皆さんの长年の努力が実って、ここに晴れて京都大学の学生になったことは、皆さんにとって人生の1つの记念すべき事柄でありましょう。我々京都大学の全ての者にとって、若々しい无限の可能性をもった皆さんを迎え入れることは、この上ない歓びであります。

 京都大学が创立されたのは1897年でありますが、初代総长木下广次氏は「自重自敬」という言叶を述べておられます。自分でよく考え、自分を大切にし、自分を尊敬できるよう努力すべきであるということであります。京都大学はまた、「自学自习」という事を言っております。すなわち京都大学で学问を学ぶというのは、受身的に讲义を闻くのではなく、自発的に、问题意识をもって授业に参加し、积极的に自ら学ぶという気持ちを持つことが最も大切であるということであります。京都大学の学风である「学问の自由」という言叶の意味はそういったところからよく理解されるのであり、何でも胜手にやってよいということではありません。皆さんは自分に合った学问を见つけるための基础をしっかりと学ばねばなりません。その基础の上に自由な学问的考え方が展开してゆくのであります。

 京都は千二百年の伝统を持つ日本文化の中心であり、日本人の精神性を支えている町であります。京都大学はその视点からも日本を代表する大学であり、皆さんは在学中にその良さを十分に味わい、自分の人格中に生かすことが望まれます。皆さんの年代はこれからの长い人生の基础を作る时であり、京都の良き文化と伝统を吸収しながら、それぞれの専门分野の学问に対して挑戦してゆかねばならないのであります。

 さて今日、大学は社会からいろいろと批判を受けています。京都大学の学生诸君には该当しないとは思いますが、最近の学生はまじめに勉强せず、単位をそろえて卒业さえすればよいという风潮があるといったことが言われています。その中でも特に大きく取り上げられているのは、最近の学生は物事を知らない、教养がない、教养教育が崩壊しているということであり、大学に対して非难が集中しているわけであります。

 そういった社会の声を背景にして、中央教育审议会は「新しい时代における教养教育の在り方について」という课题をとりあげ、有识者から意见を闻きながら议论を深め、昨年12月に答申を出しました。そこでは教养を多面的なとらえ方で定义しております。基础学力と知识、社会规范の意识と伦理性、感性と美意识、あるいは困难をのり越える体力と精神力、向上心と志、他者の立场に立って考える能力、自国のもつ文化?伝统をふまえ国际社会において相手に自分や自国の立场をよく理解させる能力、地球规模の视野で物事を考える力といったことが謳われております。

 そしてこういった教養を培ってゆくための基本的方向として、主体的な学習の態度、国际交流、異文化理解などをあげ、これを子供の頃からづっと一生を通じて獲得し、深めてゆくことが必要であることを強調しています。このような中央教育審議会の答申をまつまでもなく、大学時代?大学院時代という、個人の人格がまさに確立してゆく時期に、どのような勉強をし、どのように教養を身につけ、人格を磨くかは、皆さんそれぞれの人生にとって最も重要な事であります。

 教养といえば、物事をよく知っていることとつい思われがちですが、いくら物事を知っていても、これを正しく、良く使うということが出来ねばならないわけで、知识を悪用すれば破灭にいたります。したがって知识と教养とは峻别しなければなりません。そして改めて教养とは何かを考えねばなりませんが、これはそれぞれが自分の问题として深く考えるべきことであります。解答は他から与えられるものではありません。

 それにしても、以前は人间にとって最も大切と考えられていた教养と、それを备えた教养人という概念が、今日ややもすると疎んじられ、逆に専门家が尊重されるようになって来たのは世界的な现象のように见えますが、それはどうしてなのでしょうか。

 现代は全てのことがあまりにも専门化、细分化され、それぞれの领域において専门家でなければ适切な判断ができないという状况にあるのは事実であります。科学技术は多くの革新的なことをなしとげ、新しい产业をおこし、公司に利益をもたらすとともに、社会を豊かにして来ました。こういった世界では、科学技术のそれぞれの分野の専门家が尊重され、活跃します。先端的な技术を扱う公司の多くに理工系学部出身の社长がおられるところからもそれが分かります。最近では金融机関や商社等においても、経済や経営の専门家でなければ公司の运営について适切な判断をすることは难しいというような状况となって来ております。あらゆる可能性を考えてリスクを最小にする、あるいは期待値を最大にするといった形で数理的に市场の状况を把握し、适切な解を求めねばならないからであります。そういったところから、法律、経済、工学など、あらゆる分野で専门家が尊重され、専门家を中心にして全てのことが行われるようになって来たのだと考えられます。

 しかし今日の状况をみると、それが妥当なものかどうか、疑问视されるようなことが多く出て来ております。たとえば作った物が全く思いもしなかった环境问题を引きおこしたとか、専门家が経営しているはずの公司において、目先の利益を最大化することにばかり汲々として、结局バブルがはじけてしまうような结果を作ってしまったりもしました。専门家はしばしば自分のせまい専门分野の范囲内だけで物を见てしまい、もっと広い世界がどのように変化して行きつつあるかという観点を入れた最も妥当な判断が出来ないことがしばしばあるのであります。

 そういったことを防ぐためにも、幅広い教养を持つことが必要であると言われております。しかし、もっと根本的には、社会正义や道徳に関する意识がしっかりとしていなければならないのであります。目先の経済的利益を最大化するという、今日の経済活动の主流的立场からの物事の设计においては、社会正义であるとか、できるだけ多くの人の幸福であるとか、道徳的に考えて疑问である、といった事が全く无视されてしまう结果、长期的にみると社会が混乱し、ひいては个々の公司自体の存立も危うくなるといったことが起きかねないのであります。

 今日、そういった社会の健全な価値観、道徳観はくずれさり、それに代って评価されているのは、経済力、金銭的価値であります。最近、教养が大切だと叫ばれているのも、もしそれが金もうけをするためであるとすれば、大きな间违いであります。今日あらゆる公司活动が国际社会に直结しており、そこで成功するためには、広い视野をもち、多くの事を知っていなければならないといわれていますが、それは当然のことでありましょう。しかしそれが人が教养をもつことの动机であるとすれば、これは教养の意味をはきちがえた、嘆かわしい事であると言わねばなりません。これからの教养人は自分が社会を良い方向に引っぱってゆくのだという责任感をはっきりと持ち、无责任な批判的発言でなく建设的な発言をしてゆくべきでありましょう。すなわち、社会に対する责任感をはっきりと持った人でなければ教养人としての资格がないといってもよいと考えます。

 この责任感は、また我々のたどって来た歴史、文化、伦理観、あるいは真にあるべき社会といったことに照らして、自分の考え方、行动が误っていないか、という不断の反省に里打ちされていることが必要でありましょう。こういった行為は、何ものかに対する畏れ、あるいは敬いの念から来るものですが、これが今日ほとんど忘れ去られ、また无视され、人间の行うことは全て何んでも肯定されているかのような现代の风潮に大きな问题がひそんでいるのではないでしょうか。今日我々が直面している困难な社会状况、地球环境问题、その他多くのことは、人间のもつ傲慢さから来ていると考えることもできるのであります。我々は禁欲的な考え方や、我々の理性のおよばないことに対する畏れの気持ちを持つことが必要であり、これは教养における重要な部分を占めるものと考えます。

 戦后今日までの我々が尊重し、追求して来た概念は、个人の尊重であり、个の确立であったのではなかったのでしょうか。今日教养が大切であり、我々一人ひとりが教养を积まねばならないと言われていることは、これからの日本が戦前のような世界に戻らないようにするためにも、ぜひとも必要なことであります。そして二千年以上にわたる日本の文化?伝统の中から、真に価値あるもの、个性的であり、かつ世界に通用するものを见つけ出し、これを我々自身がよく认识するとともに発展させ、心の豊かな社会を作ってゆくためにも、敬虔な気持ちをもち、教养を积む不断の努力をすることが必要なのであります。京都という地はその意味で最も良いところであり、皆さんは京都大学で学生生活を送れることに感谢するとともに、この环境を最もよく生かし、自分の人格を高めてゆくために役立てねばなりません。我々は、これまでの良い意味での日本人の精神性をもった人达が明らかにしてきたことを再认识し、我々が今日おかれている状况から、将来にむけて何を大切に考えて进んで行くべきかを、それぞれがよく考えるべき时であるといってよいでしょう。これは新入生の皆さんへの课题にしておきたいと思います。皆さんが京都大学を卒业するときに、この宿题に対する答を提出してもらいたいものであります。

 以上述べて来ましたように、我々は教养と人格についての明确な认识を持たねばならず、これなくしては日本がいくら経済大国になり、科学技术大国になっても、世界にその存在を评価される国にはなれないでしょう。これは公司においても、また个人においても同じであります。そしてこのような原则的なことを见失った国や公司は衰退し、世界史から消えてゆかざるをえないのであります。

 さて、诸君が京都大学を卒业して社会に出てゆく21世纪はどのような时代になって行くのでしょうか。诸君はそれぞれにこの问いを问わなければなりません。科学技术はますます発展してゆくでしょう。しかし地球环境问题も深刻になっているかもしれません。生命科学も进展し、さまざまな高度医疗が行われるようになるでしょう。しかし一方では生命伦理が厳しく问われる时代となるでしょう。情报化社会の进展によって社会は大きく変転し、日本はますます国际化されてゆくでしょう。またそうでなければ日本の将来はありません。诸君には、そのような将来の日本を支え、国际社会で活跃してゆくことが期待されているのです。

 そのような21世纪国际社会で活跃してゆくためには、しっかりした専门的知识とともに、国际的な视野と论理的な思考力を持ち、深く物事を考えて适切な判断ができるようにならねばなりません。また、これを国际社会の中で発言し、纳得してもらえるだけの外国语による表现力?语学力も要求されます。21世纪はまた情报の时代であると言われています。コンピュータやその他各种の情报机器を自由に駆使して必要な情报を収集し、情报の洪水に流されずに适切な判断を下せるようになる必要があります。こういったことは全て皆さんの学生时代に十分に习得しておくべきことでありますが、豊かな教养にもとずいていなければならないことは言うまでもありません。

 京都大学は创立以来、今日までの百余年の间に、多くの先辈が辉かしい成果をあげ、京都大学ならではの学问の仕方、物の考え方を筑いて来ました。京都大学が皆さんに与えることのできるものは実に様々で豊富であります。これを自分のものとするのは皆さんの意欲にかかっているのであります。皆さんはこの価値ある京都大学の独自の学风を学びとり、ますます国际化?情报化の进展してゆく21世纪社会において、十分に力を発挥して活跃できる人材として育っていってもらいたいと愿っています。

 皆さんの学生生活は、これからの激动の时代に耐え、それを克服し、社会を良い方向へ导いてゆくための基础を基く时であります。いかなる困难な事态に遭遇しようとも、人间としての原理原则、学问の根本に立ちかえり、强靱な精神力によってこれを克服する勇気を持つことができねばなりません。何のために学问をし教养を积むかといえば、それはそういった强い人间力を発挥し、困难を乗りこえて、社会のためにつくす、そういう自分を作るためであると知っていただきたいのであります。人は志を高くもち、それに向って一歩一歩着実に进めば、必ずそれを达成することができるのであります。

 皆さんのこれからの京都大学における勉学と生活が実り豊かなものであることを期待し、皆さんの入学へのお祝いの言叶といたします。