学部卒业式における総长のことば
平成12年3月24日
総长 长尾 真
本日ここに、名誉教授の先生方、各学部長その他教職員の方々の列席のもとに卒業式を挙行し、新たに2,729 名の皆さんに卒業証書を授与することができましたことは、私の心から喜びとするところであります。卒业生の皆さんおめでとうございます。
皆さんが小学校以来长く勉学を続け、栄誉ある京都大学を卒业する日を迎えることができましたのは、皆さん自身の努力もさることながら、背后にあって有形无形の犠牲を払ってこられた皆さんのご家族、その他の方々のおかげであり、この日にあたって、これら皆さんの恩人に対して感谢する心を持たねばなりません。
今年は纪元2000年、21世纪の幕开けがもう目前という年であります。しかし现时点になっても、日本の政治?経済ははっきりとした希望を见出せず、小学校や中学校において想像もできない凶悪な事件が起り、大学においても问题が山积しているという状况であります。毎日の新闻に教育に関する记事が出ない日はなく、教育は明らかに社会问题となっております。现代は谁も自信をなくし、信念を持てない时代となってしまっているのであります。情报はあまりにも多く、目まぐるしく変化し、何をよりどころにできるかを考える时间を人々に与えません。特に教育の问题については、しばしば全く相反する意见が主张されております。
小中学校の时点からゆとりのある教育をし、何を学ぶかについて选択の幅をもたせ、个人に合った教育をし、个性を伸ばすという主张があるかと思えば、小中学生の年代に自分の适性を自覚することはむつかしく、自分の学ぶべきことを适切に选ぶことのできる能力を期待することはできない、若い间に基本的な知识をしっかりと持たせておかねば考える能力を身につけることは不可能であるといった意见もあります。こういった场合、我々はいったいどちらを信じたらよいかが分からず、かといってその中间のどこかにバランスをとって进む自信もないというのが実状であります。
大学においても教养教育の重要性がさけばれていますが、それでは教养教育とは何か、また诸君は大学で十分教养を积んだかと问われてもはっきりとは答えられず、また答える自信もないというのが现実でありましょう。そもそも教育は规格化された人间を作り出す过程ではありません。全ての学生にほとんど同じ知识、同じ能力、同じ考え方を持たせて卒业させ、公司に送りこめばよいといったことでは全くありません。大学ではほとんど勉强せず、游んでばかりいたが、社会に出てから成功したという人もいるのであります。こういった现実があって、教育ということについてなかなか确信のある考え方、プランを出せないのであります。せんじつめれば、学生一般に适用できる教育という概念はほとんど成りたたず、个々の学生にとっての教育ということがあるのみと言わざるを得ないのであります。
そこで社会からは、大学は何をしているのだ、しっかりした教育をしていないではないか、大学をもっと改革すべきだといった议论がいろいろと出てきております。しかし、大学のかかえるこのような问题は大学だけで解决できるものではありません。たとえば入试方法を工夫することが必要であると言われていますが、特定の大学に希望者が集中するという现象があるかぎり、どのような工夫をしても満足のいく解决はできないでしょう。公司がほんとうに実力のある学生を见分けて採用し、能力のある人には高い给料を支払い、社内での昇进も実力に応じて行うようにすれば、学生はよく勉强するようになることは间违いありません。また大学卒でなくても、适材适所で活跃できるように公司や社会自体が変わっていくことも大切なのであります。
高等教育のあり方についての现在の最大の不幸は、こういった状况の下で、政治や社会と大学教师、学生という叁者の相互间に、お互いに対する信頼感が失われてしまっているところにあります。叁者とも自分の考え方を明确に持てなかったり、一方的な考え方を相手に押しつけようとしたりしているとすれば大変不幸なことであります。それぞれが自分のできる努力をするところから出発し、相互理解の场をもうけ、相互信頼を回復する努力をしなければならないと思います。
19世纪から20世纪の半ばころまでは、科学技术だけでなくほとんどあらゆる学问分野で、普遍性の追求こそが学问研究であるという普遍的理性への信奉がありました。そして学问とは普遍性の体系の构筑であると信じられていたのであります。ところが20世纪の后半に入ると、世界には多様な民族?文化があり、それぞれに思考法、価値感が异なること、これを普遍的理性という立场で统一的に解釈したり、共通の场で比较することは原理的に出来ないといったことが広く认识されるようになってきました。つまり多元的価値の认识?尊重と一口でいわれる时代であります。人はこれをポストモダンの时代と言ったりもします。しかしその思想性は强固ではなく、荒っぽく言えば何んでもありの时代、相互批判可能性への努力の放弃、无责任といった臭いのする、思想というよりは一种のムードが支配する时代であるともいえるでしょう。そこで人々は迷い、将来への方向性を见失ったり、また目先のことだけを见、将来を考えることをしなくなったのであります。
普遍性を信じた时代はまた、批判的理性を学问?思想の中心においた时代でありました。これに比べれば、普遍性を否定したポストモダンの时代は明らかに精神が堕落しました。安易な妥协であります。今日の社会の混迷、教育の混乱はそのことを如実に示しています。我々はこの混迷を抜けだし、ポストモダンを超えて、批判的理性を回復し、精神を高めねばなりません。
ただ、モダンからポストモダンを経て、さらにそれを否定して进むとするならば、それは弁証法的なプロセスであり、来たるべき时代は弁証法的理性を不断に働かせて努力する时代というのが、想像される优等生的解答ではあるでしょう。しかしこれはあまりにも陈腐な答えであり、具体的にどうすればよいかを示してくれていないわけであります。またこれからの时代は、19世纪から20世纪にかけてのモダンの时代とはあまりにも违った社会环境、地球环境となりつつあり、そこでの时代精神は过去への単纯な回帰といったものではありえないのであります。
これからの时代はますます复雑となり、何が起るか分らない、何が起っても不思议ではないと言われております。そのような状况に出合った时、皆さんはその场限りの対症疗法的な対応をするのでなく、学问の根本にもどってよく考えることが必要であります。京都大学を卒业した皆さんこそ物事を根元的な立场に帰って考え行动することのできる人达であると考えます。そういった意味で皆さんは社会から期待され、また责任を担っているのであります。
したがって皆さんは、何が起るか分らない、といった受身的な考え方から脱皮し、何かを起してみせる、というところに進んで行っていただきたく思います。20世紀は非常に多くのすばらしいことを達成して来ましたが、また多くの矛盾を作り出し、多くの問題をかかえて新しい世紀に移っていこうとしております。21世紀を20 世紀よりもより良い地球の世紀にするためになすべきことは山積しております。皆さんの若々しい力でこれらの問題を解決していくことが必要であります。そのためには何かが起るという観点でなく、何かを起すという立場に立たねばなりません。
学问はそもそも全てのことを疑うところから始まり、物事に対する批判的精神を养うこと、そして学问と実践、学问と社会を考えなおすことを要请しておりますが、こうして始めて、これから実践すべきこと、何かを起す力が出てくるのではないでしょうか。それが学问的、思想的にしっかりした里うちを持つことによって、我々は信念をもって物事を実行していけるわけであります。
そのためにも我々がくぐって来た20 世紀後半のポストモダンという、いわば混迷の時代を克服し、新しい時代精神を確立しなければなりません。それには現実を直視しながら、100 年前にくらべて一段と深まったレベルでの学問の普遍性を追求し、新しい意味でのモダンの時代を作り出していく必要があるわけであります。それはグローバルとローカル、普遍的原理と個別的文化、あるいは自然科学と精神科学との共存とせめぎ合いの中から生れてくるものでありましょう。
皆さんはこれから社会に出て种々の困难な问题に出合うことになりますが、その时には大学で学んだ学问的考え方に立ち帰って、そこから新しい力を引き出していただきたいと存じます。皆さんの将来を期待して私の饯の言叶といたします。